October 30, 2008

官僚機構の完全機械化

公文書なるものを読んでみる。
とにかく、役人は公文書という複雑な抽象言語を多用し、大衆と太守をかく乱させ懐に詰め込むための方法という感じがします。この、方法は古代バビロニアからマヤ文明、ローマカソリック教会にいたるまでまったく同じ。複雑な記号体系の操作、大衆の単純な心に染み渡る、巨大なフォークロアな伝説を信じさせるフレーズの狂信者であることが、優れた役人の本質。しかし、そのあまりに盲目的な正義?にはかなり無理を感じる。この国は本当に単純な心から出来ている。

こんな時代になっていて、こんなナンセンスな組織ではこの先世界は大変なことになる。(もう、なっていますが・・。)

これなら、支出と、需要、気候、エネルギー量、地域の特質などをインプットし財政を均等に割り振るシステムをコンピューターで作ったほうが効率的で不満は出ないだろう。しかも、対応は議会のスピードの壱百萬分の一以下で達成される。その模様は、公的な放送機関が毎日報じる。地震や災害のあった場合、コンピューターがその地域へ財政を瞬時に割り振る。競争は、アイデアに対する投資に純化されるべき。エネルギーの取り合いは、互いが消耗するだけだろう。

しかし、権力の座というものの本質なのか独占欲の不幸の為に疾走し続ける。皮肉なことに芸術のエネルギー源でもある。この古代の遺物的英雄趣味的な心は妙な重力を持っている。強大な執着という霊の重さか?

現実的に、この妙な役人システムを利用しまたは、搾取から逃れて生きなければあまりに面倒くさく消耗し、停滞してしまう。または、やけくそな散財、放蕩。

しかし、妙なのはどこか役人たちも現実の現象に対処しきれず。さまざまな利害のつじつまが合わずに妥協の不満に満ちている感じがした。しかも、国際的な変動や外圧も重なり、文書はまるでアリ塚の中のように複雑怪奇である。そして、その目的をカムフラージュし利害を自分たちにちゃっかり向けている。

役人たちは、盲目的な狂信者なので自分が間違っているとは考えない訓練を施している。しかし、その正義や道徳を信じている人々も少なくは無い。
その、正義がまったく意味が無いとは思わない。古くからの意識にも通じている。
しかし、時代遅れであることは確かな事実である。

以前、通商ベネチアの黄金時代における「総括」の選び方が、複雑なアミダくじによって選出される話をTVで見た。もちろん、アミダくじ参加への権利はベネチアの大商人達だが、代表が持つ権限は大きい。その代表への選出法がアミダくじという「偶然=神の手」にゆだねられる訳だが、たしかに「偶然性」というものはもっとも「平等」な概念である。根回しや、私欲、感情論とブランド志向(ロイヤル象徴好き)に、安易にもっていかれる仕組みよりも「アミダくじ」は操作できないという利点がある。
現在の妙な象徴主義を撤廃するには、古人の知恵が現在でも有効なのでは?

ただ、現在は統計学なるものがあり失敗やリスクを回避する宗教?に人気がある。そうして、リスクを回避するために低所得者向きローンを証券化しリスクを分解しほかの証券化商品に紛れ込ませ、現在それによって世界は大変なことになっている。住宅価格があがり続け、建築物の大量生産の需要が伸び続けるという「神話=ムード」を信じ、信じたことを「信用」という「商品」にする現場を無視した「バーチャル・リアリティ」
しかし、人々は疑問をもちながらも「統計学」と「象徴主義」をどこかで信じているありさまである。しかも体験の存在しない「バーチャル」として・・・。
この問題はかなり根深いものです。

自分の持論は、「自由、平等」という権利を個人を凌駕するものとして扱わないことです。このコトバは現在の体制では「欺瞞」もいいところです。「自由、平等」とはシステムであるべきでしょう。それにしても、コミュニズムと民主主義とは基本的にどこが違うのでしょうか?いつの時代でも両者は、独裁になり封建化します。そして「象徴」への信仰が定着します。これらの問題は根がそうとうに深いので改善するまで相当な時間がひつようです。

役所や天下り先の官民企業の体質改善が急務でしょう。すべての省庁は人員をへらし、税金の割り振りは先ものべたようなコンピューターシステムによって割り振られるべきでしょう。そして、われわれはどれくらい文化的経済的に貧乏なのか自覚しなくてはならいのかもしれません。